170317

 脱稿疲れで眠いし朦朧としている。昨晩は結局一睡もしてない。でも逆になんだか目が冴えているような。カフェインハイでもないのに鼓動がばくばくするのは脱稿ののちに待ち受けるであろう彼との行為のためか? それもなくはないだろうけどおおむねただの寝不足だ。久しぶりでもわかる。
「今日は早めに寝ましょうか」
 気遣わしげな声音とともに湯上りの頬を撫でられる。まあ、それもそうだ。せっかく終わったのだからもっと相手をしてやりたいが。修羅場中は最低限だった顔と体も今日はいささか気合を入れて作ったけれど、眠くないわけではないし眠くないはずがない。
 広いベッドの上でおいでと呼ばれるままに腕の中へとおさまりに行く、この天草、いつもの天草とたいして上背は変わらないのになんだかいつもよりも大きいように感じる。存外高めの温かな体温もいつもと変わらないはずなのに、いや、いつもと同じことなんて全然ない。その姿が、顔形が同じでも、彼が私へ向けるものは本来ここにいるはずの彼とはまるで違う。まるきり根底から違う。あたたかな眼差しも優しい手も。恥ずかしくてとても仔細を語るには堪えないが。腕枕ではなく首の下に腕を回して抱きしめるのは他ならぬ私自身が彼へとしていたことだ。重い頭を受け止める枕のやわらかさと触れる肌の熱に眠気を誘われる。抱きしめた頭や肩を撫でるような手のひらはもちろん、ぴったりと隙間なくくっつけられた体があたたかい。いつもの天草は抱いて寝ても体まではあまりくっつけない。それは望まれていないからであり彼が私を特段恋しも愛しもしていないからであるのだが、今の彼は少しでも二人の隙間を埋めようとするかのようにいつでもすりより足を絡めてくる。そうした所作のひとつひとつから私への思いが伝わってきて、嬉しいのだけれど、喜びの前になぜそうした感情を私へ向けるのだろうと不思議にばかり思ってしまう。なにがどうなったらこうなるんだよ。教えてくれ参考までに。うとつく私の眼前には彼の整った顔がある。ここへ訪れ、彼の目の前に晒すためと隙なく綿密に造りあげ美しい造形を得たところで醜形の不安は癒えず彼の前にあるたび私を深く苛むが、不安も恐怖も真剣に取り合うよりもうどうにでもなれと遠くへ擲ってしまうのが吉だ。恐らく。だからどうでもいいということにしたい。しておくのがいい。ふと漏らされた笑みらしい吐息が鼻さきをくすぐって、抜本的解決でなくとも不安はいくらか融解する。ささやかな礼の代わりに軽く唇を啄んだ。抱きしめる指先がぴくと動いて、離れようとした唇が追われ塞がれる。口から魂が抜け出ることがあるのならば私の魂は彼に飲み干されていただろう。皮の薄いやわらかな唇が隙間なく私の口を塞いで抱きしめる腕に縋るように力がこもる。触れる面積は僅かに増えただけだというのに口づけだけでどっと熱が上がるんだから不思議だ。垂れ落ちる髪を払ってやりながら何度も唇を食まれ顎や頬を確かめるように撫でられると、どろつく興奮ととろけるような眠気が同時に襲いくる。私にすりより唇を吸うこの男は本当に天草四郎時貞なのだろうか。納得できない心をよそに、本人と示す証拠は思いのほかいくつもある、私がホワイトデーに天草へあげるべく用意したものを彼は見ずとも知っていたし、数日前の夜一日の原稿ノルマを果たし疲労困憊すぐにも眠りにつかんとしていた私を抱いてベッドへ横たわり、微睡む耳元へ熱のこもる湿った声音で「あなたの名を呼びたい」と吹き込んできたのも多分そう、あなたの名を呼ぶ声が音があなたの耳へと届くそれだけで、得難く幸福なことだとかつて私自身が天草に言った、それが彼へは与えられないことを考慮したことがないでもないが、まず彼はそれを求めはしないだろうと高をくくっていたのだ。愛せよと欲しておきながら。だが今現に目の前にいるこの人は、そんな、あまりに簡単でしかたのないことをしたいと望んでいる。私の名を呼びたいと望み肌へ触れたいと餓(かつ)え口づけを乞うている。うーんやはりちょっと…………どういうこと…………? 普通に意味がわからない…………。向けられる感情の正体はわかる。裏や企みがないのであれば。向けられていた無感情と無関心の粋を集めたようなまなこがある日突如熱に濡れ愛を乞うのだから不可解でないはずがない。混乱する。理解が追いつかない。などとしている間にも天草の舌先が皮の薄い下唇をつうとなぞっていく。粘膜をやわらかくあたたかく濡れたものに撫でられるのが気持ちよくないはずがない。招き入れるように薄く唇を開いてやる。実のところ、舌同士を擦りつけ合い口の中をまさぐる深いキスはお好みでなくむしろ気持ち悪いと長年認識していたがこの際それは過ちであったと悔い改める他ない。人の粘膜なにするものぞ、ぐちゃぐちゃにすりあわせてみたところで卑猥なだけで性欲の解消にしかならないし、口も舌もたいした性感帯でもなし、単なる欲望の解消であれば好きな人とする理由がない。そう思っていた。本当に。グラパシに出会うまでは。以下グラパシ語り中略。私とて想う人との口づけの最中にすらグラパシを語るほど野暮じゃない。精神が体の内側に宿るものであるとして、粘膜は体外でありながら体内に最も近い、人の弱くやわくもろいところ、そこへ触れること触れたいと願い触れることを許されること、触れられたいと望まれること、そのどれもおよそ、仮想的な、精神の交感に相違ない。緊張と興奮に呼気が震える、今目の前にいるこの人が、私を愛する理由も経緯もわからなくとも確かに事実、私へ思いを寄せていて、口づけたいと願っていることは火を見るように明らかだ。私へ触れるおよそすべてを嘘でないと信じることができる。裏はあるのか知らないけれど。何日もの夜を舌のみで耐えさせてきてしまったが今夜からはもう舐めるのは口内のみでは終わらないだろう、わずかに舌を持ち上げれば私の唇の上で侵入をためらうやわらかな肉の塊にぬると舌先が触れる。背や肩や触れられた箇所すべてをひりつくような歓喜が瞬間怖気のように駆け上がる。一度私の口の中で呼吸が跳ねると、躊躇いをなくした舌にねっとりと表面同士をすりあわされて思わず情けないくぐもった声があがってしまう。そのやわらかさとあたたかさの伴うぬるつくもの同士をやわくと擦りあわせられて、甘美でないはずがない。その上今の私は体内という通常秘められし人へ触れさせぬ場所に、一等愛するこの人の精神や魂そのものを仮想的に見出しているんだからもうだめだ。ふと頬を包むてのひらの温かさが離れて一抹の寂しさを覚えた間に、横を向いて向かい合っていた体を仰向けに倒されながら天草が覆いかぶさるように私の上へと乗りあげる。僅かに舌と舌とが離れた合間に吐き出される吐息は興奮に熱く濡れていた。すべりおちた天草の長い髪が頬へと落ちてくすぐったい、ただそこにあるだけでなく自ら私へ熱を分け与えてくる天草四郎という存在が、あまりにも理解できない。できないけれど、喜ばしい。枕へ肘つく両腕に頭を抱えられるようにして、与えられる口唇と吐息とに思考が塗りつぶされていく。理解できるかなどどうでもいい、今ここにあってとめどなく私へ流し込まれる奔流のような愛と熱とに満たされるままただ溺れてしまいたい。事実抗いようなどあるものか、彼の注がんとするそれこそ彼に出会ってから三月半なにより欲したものなのだから、ごちゃごちゃ考えるだけでわずらわしい。まどろっこしい。彼は今だけの幻想だ。私たちには時間がない。これがずるでも、正しくなくても、今この私が知らない天草四朗時貞であるのだとしても、あるいは彼が天草四郎時貞でないのだとしても、私があの日あの夜召喚した彼であるのならばそれだけでいい。  離れようとする舌を仰のいて、顎の下をくすぐるように撫でながら追う。互いの唾液の立てる水音をきっとこの人は嫌うだろう、そう思っていたのだけれど、少なくとも今の彼はあまり気にしていないようだ。水音を立てて離れた唇同士の隙間で息を吸う。カルデアの部屋のひやかな空気が喉と肺を冷やしていく。本来私の前にいたはずの温度のない空気をまとうその人が思い出された。あの人は私を想わないがこれは二心であるのだろう。不義を働いてよいはずがないのだけれど操を誓うにはあの人はあまりに遠すぎる。
「早く寝ましょうなんて、言って」
 お恥ずかしい、と濡れた囁きに肌をくすぐられる。覚悟を、決めていたつもりでも身体すべてが所在なくいたたまれないようで、触れ合い視線を受ける肌は羞恥に粟立ちそうだ。
 いいよ、と応える声は情けなく掠れてしまう。
「私も天草と、いろいろなことが、」
 見上げた瞳が見慣れた冷たい金でなく煮詰めた蜂蜜のように甘くとろけて私へ眼差しを注ぐことに、戸惑い、言葉が詰まる。無遠慮なほどまっすぐな眼差しはいつも通りであれそれは突き刺す残酷な無関心でなく、完全なる真逆の、体表のみならず身体の内側までをもすべて優しく暴きたてて確かめんとするものだ。羞恥といたたまれなさから逃れるように視線を逸らしてしまう、この人のすべてを受け入れたいのに、けれど受け入れるには私という容器もその入り口もあまりに狭く小さすぎる。溢れさせたくない。けれど初めから受け入れずに溢させるのではあまりに本末転倒だ。汗に湿るてのひらが頬や首を撫でて唇を掠めるのは言葉の続きを待つからだ。律儀さもあるだろうけれど概ね言わせたいだけだ。きっと。求めたものがここにあってその上求められている、正しくはないけれど致命的に間違えているわけでもない、間違えているとともに正しくもあるのだから、とはいえどれも言い訳じみている。これが二心で、不義であるとして私には拒めない。受け入れたいと既に願ってしまっている。やはりうまくは見つめ返せぬ瞳を一瞥し未だ濡れる唇にひとつ吸いついて、耳朶へ顔寄せ完璧な喉を作り上げる、声色も温度も高さも掠れ具合まで完全だ。それでも羞恥を拭えないのが情けない、きっと私の造形が完璧でなくたってこの人の愛は揺らいだりしないのに、雑念を振り払うように続きを告げると微笑とともに待ちかねたように熱持つ安寧が齎された。