目を閉じて、もう一度開く。白い壁に白い天井、白い椅子。白い毛髪。なにも変わらぬカルデアの日常だ。焼却された人理は無事に修復され、新所長就任とサーヴァント退去までの僅かな時間に、俺は俺の夢を拾おうとしている。親愛なるマスターには秘密で。
視界に黒い影が落ちる。そう、ひとつだけ変化があった。彼女が来たのだ。
「なにをぼうとしておる」
「――ごめん、アサシン」
かつての、そしてこれからの相棒へ微笑みを向ける。縞島に召喚された彼女へ、どうかまた協力してほしいと持ち掛けたのが、どうしてかはわからない。聖杯は既に我が手にあり、毒も虚栄の空中庭園も必要ない。殺戮ならば誰にでもできる。協力者が彼女である必要は、最早どこにもなかった。だと言うのに、助力を乞う胸が自身でも驚くほどに、どこか必死であったのはなぜだろう。
「確かにあの聖杯大戦の大聖杯も、内部は人型を象っていた。だが……」
彼女がちらと視線を送る、部屋の奥の椅子には床に垂れるほど長い、薄墨色の髪の女が彫像のように座していた。その頭は項垂れて、両腕は力なくひじ掛けの上に置かれている。女帝の表情は打ち捨てられた廃棄物を見るように苦々しい。どうかそんな顔をしないでほしい。あれは俺の願いを叶えてくれる人なのだから。
「斯様な肉の骸が大聖杯? 醜悪にもほどがある」
「冬木の大聖杯も、基盤は一人のホムンクルスでした。なにも変わりはありませんよ」
屍の、俯く頬へ手を伸ばす。ようやく得た、俺だけの杯だ。中身の満ちたこれが、枯れゆく前に飲み干してしまわなければ。
「マスターとの約束はどうする」
「違えることとなり、残念です」
「やはり、するのか」
「目の前に、俺の願いを、人類を救えるものがあるのに、使わずにいることはできない」
どうしてそんなことを問うのか。俺にまた、手を貸してくれると言ったのに。俺はこれを飲み干して、第三魔法を世の、人のすべてへと、遍く降り注がせてやらなければ。世界をやさしく、死と、苦しみのないものへと塗りかえなければならない。それは正しいことだ。きっと、やさしいことだ。せねばならないことだ。なのに、なぜ、
「これは誰だ。どこから持ってきた? ――まあ、我にはどうでもよいが」
「どう、して、」
痺れるような頭痛とともに視界が歪み、心の臓を握り潰される激痛が走る。鼓動が乱れ体組織がうちから破壊されていくような痛みに、膝を折りかけてどうにか耐えた。口の端から液体が垂れ落ちていく。軽くえずいて、床へ飛び散る模様に、それが血液であるとわかった。
「どうしたもなにも。あまり、我を見くびるな」
見下ろす目の冷徹さに、いつかの初対面を思い出す。かつての俺が、ルーマニアで彼女を召喚したときだ。あのときもこうした、今にも射殺されそうな視線に晒され、試された。けれど今は少々違う。これは、罪人へ刑罰を下す女帝の目だ。
観念するのは早かった。なにせ毒物への対抗策を、自分は有していなかったし、命乞いが無為であることもあまりにわかりきっている。彼女の前で二度と夢は目指さないなどと、告げたところでなんと空々しいことだろう。膝を折って、知らず口元が緩んでしまう。
「絶望せぬのか。つまらん」
「……ええ、どうやら少し、驕っていた、ようです」
「汝は驕るくらいが丁度いい。だがそう、此度は、いささか驕りすぎたな」
捨て台詞にしては、親しみが声へと深く滲みすぎている。俺が知らずに見積もっていたほどではなかったけれど、確かな情は、かつてと異なる彼女の胸にも未だ残っているようだった。這い蹲る俺の横を悠然と通り過ぎて、彼女は部屋を出て行く。敗者へ、それも罪人へかける言葉など彼女にありはしない。それはそれで、寂しさを感じないでもないけれど、ありがたくもあった。今の俺はひどく間抜けだろうから。
悶えるような苦しみに、けれどそうまで絶望はない。どうしようもなく悔しいけれど、きっとこうした末期も俺には正当だろうと思えたからだ。
地に膝ついて、座した肉塊を見上げる。自身の乱れた白の長髪が邪魔だ。女帝の宵闇とはまるきり違う、淡い夜の、御簾のような長い髪。血の気の失せた白皙の美貌、隙間なく並ぶ伏せた睫毛、閉じられた薄い唇。見覚えのない顔、見知らぬ人、知らぬ人間だ。けれど確かにこの人は、俺が手に入れた聖杯で、その経緯も、誰であるのかも、知っていないはずがない。知らないはずがないのだ。だというのに、俺はこの人を知らない。
床を摺る、彼女の灰のドレスまで俺の血が汚しているのが見えて、はらおうと触れた箇所がまた赤黒く汚れていく。もう頭の中は滅茶苦茶で、わけもわからなくなっていることにおかしくて自嘲のような笑みがこぼれてしまう。地を這って、加減をなくした不躾な力で彼女の膝へ手を置くと、漏れ出る魔力で微かに苦痛がやわらいだ。骨ばった膝に頭を預け、息を吐く。体中にいくつも大きな穴が開いているようで、彼女の膝もドレスも血に濡れてしまうことをどうか許してほしい。彼女のことは知らないけれど、恐らく、許してくれるだろうと思えた。
置き土産のようなこの肉塊の聖杯では、俺の願いを叶えきるには足りないことはわかっていた。精神をなくしたこの身体は、膨大な魔力を肉体という器へ繋ぎとめる楔を失ったも同然で、蛇口の壊れた水道のように魔力を垂れ流していく。かつては無限の泉のように湧き出ていた魔力も、今はただ流れ出て枯れ果てるのを待つのみだ。
「……どう、して」
彼女から漏れあたりを漂う薄く色づいた、あたたかいような冷たいような奇妙な魔力を浴びていると、失われた日々の輪郭がうすぼんやりと描かれていくようだった。遠い向こうに靄がかるそれの、在ることはわかるのにその実体を掴めない。
「どうして、行ってしまったんですか」
この人を、失った時点で今回の俺の旅は終わりだったのだろう。他の聖杯を目指すのは、また違う俺の話だ。視界の霞む瞼を閉じる。
世界を覆うあの人の気配が失われても、その残滓に身を浸していれば、まだここにあの人がいてくれるように思われた。名を呼べば、また会いに来てくれるような気がする。するのだけれど、やはり名前は思い出せなかった。
(終)